子からの親の呼び方には様々な流派がある事が知られているが、我が家では妻の希望で「とうちゃん」「かあちゃん」で行くと決めていた。といってもただ決定しただけでは実際に子がそう呼んでくれる様にはならないので、子が言葉を発する様になる前から、事あるごとに「とうちゃんだよ〜」などと積極的に自己紹介していく事になる。
しかし、これはあらかじめ想像できていたことだが、「とうちゃん」「かあちゃん」というのは「パパ」「ママ」と比べて相当発音が難しく、他の単語の習得に比べ、父母を呼ぶための語彙の獲得が相対的に遅れることになる。
また同時に、ちょっとした気恥ずかしさだったり、子供世代への安易な迎合なのではないかといった気持ちがあって、私も妻も子に対するコミュニケーションで幼児語をあまり使わないという状況があった。
だが、保育園に通う様になるとそうは言っていられない。保育園は幼児語天国であるし、子がちょうど保育園に通い始める時期が言葉を発し始める時期と重なっていたこともあって、子は保育園で大いに幼児語を吸収し、それを我が家でも広める様になった。やはり広く長く使われている幼児語の「幼児にとっての覚え・使いこなしやすさ」は相当である。
はじめに我が家に輸入された幼児語は「わんわん」あたりだったと思う。当初は犬だけでなく猫や、絵本に出てくるライオンなども「わんわん」と呼んでいたのだが、意外と正確に、それも写真・絵・映像・実物といったメディアの違いに関係なく四足歩行の哺乳類のみをそう呼んでいたので、視覚的な分類・認識能力が早くもある事に驚いた。また、その大きな「わんわん」のグループからまず「にゃーにゃー」を見分けて呼び分けることができる様になり、いつの間にか「きりんさん」「かば」も呼び分ける事ができる様になった。動物以外にも、一緒に外出した際に見つけた物事を「ぶーぶー」「ぶーん(飛行機)」「かーかー(カラス)」などと指差して説明する語彙が増えていく様子を見ながら、語彙の増加と、視覚による認識能力の精度が連動して向上しているなと感じた。
さて、保育園の先生や周りの子供たちは早くから「ママ」「パパ」という語を使っていたのだが、その語が最も多く使われるのが保育園のお迎え時間、子供たちがベビーサークルの中から親に抱え上げられて去っていくタイミングであったため、子は「ママ」という語を「私を持ち上げて下さい」という意味だと考えていた様だ。だから父親の私にも抱っこしてほしいタイミングで「マ〜マ〜」と言うし、「私を食卓の子供用イスに座らせてください」という意味でも「マ〜マ〜」と言っていた。
そういった状況が数ヶ月続いた後、子がついに、というか意外と突然、「とうちゃん」「かあちゃん」という語を発する事ができるようになった。その時点でかなりの単語をマスターしており言語能力をある程度獲得していたため、一度発音に成功したらすぐに「とうちゃん」「かあちゃん」と目的を持って語を使える様になった。その時の子は、直接家族二名を呼ぶ事ができて、とても便利で嬉しいという様子で、何度も「とうちゃん」「かあちゃん」と繰り返しては親に返事をさせ、満足そうにしていた。
その少し後の妻の出張から、子の様子が変わった。それまでも何度か出張で一週間程「母がいない」という状況があっても寂しがる様子を見せなかった子が、明らかに母の事を気にして寂しがり、私に度々「かあちゃんは?」と聞いてくる様になった。母がいなくて寂しい気持ちを言葉で表現できる様になったという面だけでなく、「かあちゃん」という語を獲得する前の状態では「家の大人がいつもより少ない」くらいの漠然とした認識だった事態が、「『かあちゃん』の不在」という形で認識できる様になり、寂しく不安な気持ちが明確になったのだろうと感じた。語彙が増える事で、周囲を認識する能力だけでなく、感情の解像度も上がるのではないだろうか。
その後、二才になる頃にはかなり達者に文章をペラペラ話す子供になり、最近では「おとうさん」「おかあさん」という語を「他の子供の父母」を指す言葉として把握しているらしく、突然「おかあさん」ブームが訪れて、やたらと他の子の親に「おかあさん、おかあさん」と呼びながら甘えていた。「とうちゃん」「かあちゃん」は保育園の他の子も使わないレア呼び名なので、子にとっては自分の両親だけを示す固有名詞になっており、私は毎日「とうちゃんとうちゃん!」と呼ばれては「はい、とうちゃんです。」などと答えている。
このエッセイは「漫想新聞 第7号」に掲載されています。通販品切れで掲載から時間も経っているため、全文掲載しました。デパートの擬人化?他の記事も面白いので機会があったら読んでね。漫想新聞。