「育児エッセイの練習」は、こちらに移転しました。

noteの運営会社に対する不信感が残る事象が続いたので、自分の(借りてる)サーバでやる事にしました。

旧: https://note.com/drumsoft/
新: https://drill.drumsoft.com/

ちなみに 続・イヤイヤ期(漫想新聞8号掲載) は2019年の漫想新聞掲載記事なのですが、私の怠慢でnote版に掲載されていませんでした。ここでは(途中まで)読めます。あと、この期に掲載号が通販品切れになっている 「はい、とうちゃんです。」(漫想新聞7号掲載)赤ちゃんがおっさんめいているのは(漫想新聞6号掲載) を全文読める様にしました。

よろしくお願いします。

続・イヤイヤ期 (漫想新聞8号掲載)

子が二歳だったころ、それから三歳になった後も、「イヤイヤ期大変?(大変だった?)」としばしば聞かれた。三歳になってしばらく経った今、聞かれたら……「実はまだイヤイヤしているのです」と答えるしかない。

むしろ、子が二歳児だった頃のイヤイヤは、一時的な発作としてイヤイヤしている感じで、しばらくたてばケロッとこちらの言う事に従ってくれる感じだったのだが、三歳九ヶ月のイヤイヤは、「おれはそれはイヤだから絶対にしないのだ」という確固たる意志を持ってイヤがっており、言葉も達者なら力も強く手に負えない。何が「魔の二歳児」だ今の方が断然大変だぞという状態である。

「イヤイヤ期」の原因についてよく言われている説明は、形成されはじめた自我の最初の働きであるという物だ。そもそも「イヤイヤ期」以前の子供、つまり赤ちゃんにとって、毎日の生活は何をするにも保護者のペースである。お腹の空き具合やオムツの状態などの生理的な不快感によって泣くという行動はあるものの、いつ何を食べ・何を着て・どこに出かけるのか、全て保護者に決められるがままの生活を送っている。これが、自我の形成に応じて自分の欲求や意思が生じてくると、保護者の決めた行動・処遇ではないものを求めるようになる。しかし、この頃はまだその欲求・意志を伝達する手段を持たないため、単純に「イヤ」と拒否する行動で示す他ない。「イヤイヤ期」は自己決定の最初の一歩なのだろう。

それでも言葉が少ない時期の「イヤイヤ」はそこで通したい欲求もまだ曖昧で、前述の通りひとしきり「イヤイヤ」し終わればケロっと「いい子」に戻ってしまう。しかし、成長に応じて知っている語彙が増え、言葉が自在に使える様になってくる事で欲求がより具体的に意識できる様になり、それを表現する手段も身につける事で子の「イヤイヤ期」は新しい段階に入った様に思える。これを便宜的に「続・イヤイヤ期」と呼ぼう。

私の子がこの「続・イヤイヤ期」に具体的に「イヤイヤ」してきた対象は時期に応じて異なるが、もっとも多いパターンは、今自分が一番やりたい遊び(レゴブロックだったり、ミニカーだったり、パズルだったり)を継続したいというもので、それを中断しなければいけない食事・風呂・登園・就寝などをイヤがる。というパターンが多い。

そういった場合、単に「イヤイヤ」とイヤがるだけに留まらず、イヤがる理由を述べる事でこちらを説得しようとしてくる。理由といっても「ごはんきらい」「おふろきらい」「ほいくえんきらい」といった単純なものだが、どう見ても本当に嫌っている様には見えない。「イヤイヤ」を乗り越えていざ食事を始めると結構きちんと食べるし、お風呂も入ってしまえばご機嫌でお風呂のおもちゃで遊んでおり、保育園には大好きな友人もいて、帰りは中々帰りたがらない。全ては、今やってるご機嫌な遊びを継続したいと言う気持ちがあって、その理由として「《次にやらねければいけない事》がきらい」という理由を生み出している。(続く)


このエッセイは「漫想新聞 第8号」(2019年3月発行)に掲載されています。通販品切れなんですが現在の最新号のため全文は掲載しませんので、続きはなんとか探して読んでください。ちなみに新型コロナとかあって漫想新聞第9号の発行が延びていますが、私の記事は2020年中に書いてありまして、2021年中には発行されると思います。

「はい、とうちゃんです。」 (漫想新聞7号掲載)

子からの親の呼び方には様々な流派がある事が知られているが、我が家では妻の希望で「とうちゃん」「かあちゃん」で行くと決めていた。といってもただ決定しただけでは実際に子がそう呼んでくれる様にはならないので、子が言葉を発する様になる前から、事あるごとに「とうちゃんだよ〜」などと積極的に自己紹介していく事になる。

しかし、これはあらかじめ想像できていたことだが、「とうちゃん」「かあちゃん」というのは「パパ」「ママ」と比べて相当発音が難しく、他の単語の習得に比べ、父母を呼ぶための語彙の獲得が相対的に遅れることになる。

また同時に、ちょっとした気恥ずかしさだったり、子供世代への安易な迎合なのではないかといった気持ちがあって、私も妻も子に対するコミュニケーションで幼児語をあまり使わないという状況があった。

だが、保育園に通う様になるとそうは言っていられない。保育園は幼児語天国であるし、子がちょうど保育園に通い始める時期が言葉を発し始める時期と重なっていたこともあって、子は保育園で大いに幼児語を吸収し、それを我が家でも広める様になった。やはり広く長く使われている幼児語の「幼児にとっての覚え・使いこなしやすさ」は相当である。

はじめに我が家に輸入された幼児語は「わんわん」あたりだったと思う。当初は犬だけでなく猫や、絵本に出てくるライオンなども「わんわん」と呼んでいたのだが、意外と正確に、それも写真・絵・映像・実物といったメディアの違いに関係なく四足歩行の哺乳類のみをそう呼んでいたので、視覚的な分類・認識能力が早くもある事に驚いた。また、その大きな「わんわん」のグループからまず「にゃーにゃー」を見分けて呼び分けることができる様になり、いつの間にか「きりんさん」「かば」も呼び分ける事ができる様になった。動物以外にも、一緒に外出した際に見つけた物事を「ぶーぶー」「ぶーん(飛行機)」「かーかー(カラス)」などと指差して説明する語彙が増えていく様子を見ながら、語彙の増加と、視覚による認識能力の精度が連動して向上しているなと感じた。

さて、保育園の先生や周りの子供たちは早くから「ママ」「パパ」という語を使っていたのだが、その語が最も多く使われるのが保育園のお迎え時間、子供たちがベビーサークルの中から親に抱え上げられて去っていくタイミングであったため、子は「ママ」という語を「私を持ち上げて下さい」という意味だと考えていた様だ。だから父親の私にも抱っこしてほしいタイミングで「マ〜マ〜」と言うし、「私を食卓の子供用イスに座らせてください」という意味でも「マ〜マ〜」と言っていた。

そういった状況が数ヶ月続いた後、子がついに、というか意外と突然、「とうちゃん」「かあちゃん」という語を発する事ができるようになった。その時点でかなりの単語をマスターしており言語能力をある程度獲得していたため、一度発音に成功したらすぐに「とうちゃん」「かあちゃん」と目的を持って語を使える様になった。その時の子は、直接家族二名を呼ぶ事ができて、とても便利で嬉しいという様子で、何度も「とうちゃん」「かあちゃん」と繰り返しては親に返事をさせ、満足そうにしていた。

その少し後の妻の出張から、子の様子が変わった。それまでも何度か出張で一週間程「母がいない」という状況があっても寂しがる様子を見せなかった子が、明らかに母の事を気にして寂しがり、私に度々「かあちゃんは?」と聞いてくる様になった。母がいなくて寂しい気持ちを言葉で表現できる様になったという面だけでなく、「かあちゃん」という語を獲得する前の状態では「家の大人がいつもより少ない」くらいの漠然とした認識だった事態が、「『かあちゃん』の不在」という形で認識できる様になり、寂しく不安な気持ちが明確になったのだろうと感じた。語彙が増える事で、周囲を認識する能力だけでなく、感情の解像度も上がるのではないだろうか。

その後、二才になる頃にはかなり達者に文章をペラペラ話す子供になり、最近では「おとうさん」「おかあさん」という語を「他の子供の父母」を指す言葉として把握しているらしく、突然「おかあさん」ブームが訪れて、やたらと他の子の親に「おかあさん、おかあさん」と呼びながら甘えていた。「とうちゃん」「かあちゃん」は保育園の他の子も使わないレア呼び名なので、子にとっては自分の両親だけを示す固有名詞になっており、私は毎日「とうちゃんとうちゃん!」と呼ばれては「はい、とうちゃんです。」などと答えている。


このエッセイは「漫想新聞 第7号」に掲載されています。通販品切れで掲載から時間も経っているため、全文掲載しました。デパートの擬人化?他の記事も面白いので機会があったら読んでね。漫想新聞。

赤ちゃんがおっさんめいているのは (漫想新聞6号掲載)

新生児の顔や仕草が男女問わず「おっさん」めいているという話を聴いた事がある人は多いのではないだろうか。私の子も例外ではなく……というか正直想像以上だった。新生児にとっておっぱいやミルクを飲むのは必死の重労働で、お腹いっぱいになるまで飲んだ子は真っ赤に上気し、かつ満足してぐったり……をこえてぐにゃんぐにゃんとした状態になる。そんな様子の子を抱きかかえていると、酔っ払いのおっさんを介抱している様な気持ちになった。酔っ払いのおっさんなのに大きさが小さい、という意味のわからなさが笑える。

顔つきについても、同じく小さな子を持つ知人がこんな事を呟いていた。

「新生児は容貌がガッツ石松派・出川哲朗派にほぼ二分されると聞いた気がする(うろ覚え)ので亀井静香は寧ろ個性がありいいと思います。」( Adeosy https://twitter.com/adeosy/status/653497466243846144

そう言われてみると、自分の子については高木ブーに似ているなと思っている時期があって、産まれた時から目と頰の間にあるシワの事を「ブーちゃんライン」と呼んでいる。「ブーちゃん」というのは高木ブーのブーでもあり、またこのラインがある事で頬のふくらみが強調されて、ブ〜ッと膨らんでいる様に見える効果を感じるという意味も含んでいる。ちなみに、これは新生児の顔のシワとは異なり表情筋の境目が見えているものらしく、子が一歳八ヶ月になる今でも残っている。

この様に新生児の見た目が「おっさん」に例えられやすい理由は、ひとつには顔がしわくちゃな事が挙げられると思う。それが「おばさん」ではなく「おっさん」なのは、大人の女性については化粧をしている顔を記憶している事が多いという理由と、だいたいの新生児が薄毛なので、薄毛の中高年男性という姿に結びつきやすいという事があると思う。

また、新生児の表情には成長によって獲得される類の動きがなく、あくび、眠くて目を閉じる、泣くといった生理的な動きしかしない。これが、表情筋の筋力の低下や、加齢に伴う落ちつきや情動の鈍化、場合によっては痴呆などによる、中高年〜老人の表情の動きの少なさと結びつく。

私の子が産まれてまだ一月も経たないころ、彼を抱いて顔を見ながら、自分の父に似ているなと感じていた。遺伝によって似ているという事ももちろんあるのだろうが、父が死んだのが子の産まれる一年半ほど前で、パーキンソン病の症状で表情に乏しかった晩年の父の様子の記憶が新しかったという事もあり、新生児らしい、黙ってどこかを見ているようなどこも見ていないような表情は、父が黙って何か考え事をしている時の雰囲気を強く感じさせた。私は懐かしさと同時に、赤子に戻ってしまった父を抱いているような奇妙な感覚を抱いていた。

ところが今になって当時の写真を見返すと、特に父にも高木ブーにも似ていないな……と感じる。「強いて言えば似てるとも言える」くらいの類似度だと思う。そもそも、高木ブーの顔にブーちゃんラインはなく、自分の勘違いだった(!?)。新生児の子育てという、睡眠時間が不規則になりあまり外にも出ない生活で、その子の顔ばかりじっと見つめていると、認識にゆるみができるというか、あるいは脳が少し暴走して手当たり次第に「記憶にある顔のパターン」と結びつけてしまうのかもしれない。

そもそも、インターネットでも育児雑誌でもいいので多くの新生児の顔を見比べてもらうと分かるのだが、新生児たちはだいたい似た様な顔をしている。それは個別の「〇〇ちゃん」「△△ちゃん」といった人格を感じさせる部分よりも「霊長類ヒト科の赤ちゃん」という印象の方が強い。新生児の顔のつくりが個々人として把握するには曖昧性があり、また人間の顔の祖型ともいえる状態である事と、それを見る親の精神状態に生じる隙、そういった要素が合わさって、それは見る者の記憶にある他の顔の形と容易に結びついてしまう。

だからメディアで度々目にして記憶に残っている有名人の中高年男性達の顔や、父親といった自分にとって身近で、また遺伝的にも近い中高年男性の顔に対しては、特に新生児が似ている顔だと感じやすいのだろう。という事は、メディアの発達していなかった時代には、新生児は親にとって、専ら自身の親に似ていると認識されやすい存在だった筈だ。私が感じた様な懐かしさや畏しさ、あるいは奇妙な感覚を新生児に対して抱いた親たちも少なくなかったかもしれない。人々の親への想いが様々である様に、その事が及ぼす効果も様々だっただろうが、少なくとも新生児が取るに足らない小さな存在ではない、無視できない存在感を持ったものとして生活に受け入れられるために、その顔を見ていると身近な中高年を思い出すという現象が役に立ってきた部分もあったに違いない。よく言われるように子供の成長は早く、そんな新生児らしい容貌は数週間で消え去って、誰が見ても「おっさん」とは言えない立派な乳児になる。そして一歳になる頃には「○○ちゃん」個人としての顔立ちもはっきりしてきて、立ち居振る舞いや表情にも個性が現れる様になって、保育園などで一歳児が沢山いる部屋の中でも各人の見分けがはっきりと分かる様になる。そんな頃の親にとっては「新生児はおっさんに似ている」と言えば単なる笑い話というか、早くもちょっと懐かしい感じの「あるあるネタ」となってしまうのだが、それはまだ社会性を持たない新生児が、家族という最初の社会に受け入れられるために役立つ道具であったとも考えられるのだ。


このエッセイは「漫想新聞 第6号」に掲載されています。通販品切れで掲載から時間も経っているため、全文掲載しました。GHQとか青鞜とか他の記事も面白いので機会があったら読んでね。漫想新聞。

最速!粉ミルクの作り方

2021年追記:この記事掲載当時(2016年)は、日本国内で液体ミルクを販売する事ができず、文中でも「日本国内での液体ミルク製造販売を求める署名ページ」へのリンクを掲載していた。その後2018年に厚生労働省により省令が改正され国内販売が可能になり、翌年3月から江崎グリコ、明治から液体ミルクの販売が開始された。(やったね!)(乳首もついてて開けてそのまま飲ませられるタイプでは無いけど…)というわけで、外出時などは液体ミルクを使用するのがオススメだが、コストと保管スペースの点では粉ミルクの方にメリットがあり、粉ミルクから完全に移行するのは難しいだろう、という事でこちらの記事の内容もまだまだご活用ください。


離乳食の外食化が可能か試してみようという話になって、近所のデパートのベビールームで子に離乳食とミルクを与えてみた事がある。日曜日だったので私と同様にミルクを作って与えているお父様も多かったのだが、哺乳瓶を水道水にあててミルクを冷まし、中の液体を腕に垂らして温度を確認する…という作業を繰り返しているお父様が多く、なかなか時間がかかる面倒くさい作業のように見えた。そこで、冷ます作業が必要ない私の「最速」のミルクの作り方を書いておきたい。

まず、粉ミルクは赤ちゃんの体温から40℃くらいの範囲に調整すべきものだと思っている人が多いのではないだろうか。どこで憶えたのか思い出せないが、私もそうだった。実はミルクの温度は室温ぐらいで問題ない。欧米などでは「液体ミルク」と呼ばれる調乳済みのミルクが販売されている(参考:日本国内での液体ミルク製造販売を求める署名ページ)。これはキャップを開けると使い捨ての乳首が露出してそのまま授乳ができるという大変便利な商品なのだが、特に事前に温めよといった指示はなく、みな保存している室温のまま与えているそうだ。そういった事から、冬の室温や外気温では冷たすぎてお腹にやさしくない場合があるだろうが、概ね20℃台以上であれば問題ないと考えられる。一方、ミルクの温度を37〜40℃に調整しようとしてしまうと、これは許容できる温度帯の中ではかなり上限に近いため、ちょっとブレるだけで「熱すぎる」ミルクができてしまう。そこで、ミルクの温度は30〜35℃にする事を目標として調乳したい。これなら多少温度がブレても、だいたい25〜40℃の範囲におさまるはずだ。

実際の調乳手順(でき上がり量100ccの例)はこうだ。

1. 湯を沸かす(70℃〜90℃程度に調整する)
2. 哺乳瓶に粉ミルクの粉末を入れる
3. 50ccの湯を哺乳瓶に注ぐ
4. マドラーで混ぜ粉末を溶かす
5. ペットボトルから冷たい水をそそぎ100ccに調整する
6. マドラーで混ぜて温度を均一にする
7. (心配なら)水面の温度を赤外線温度計で測る
8. 哺乳瓶に乳首をセットして完了

詳細な説明とするため工程の数は多くなったが、工程 1 の「湯沸かし」を除き、「哺乳瓶に水道水をかけて温度が下がるのを待つ」等といった「待つ」工程がない。このためこの手順を使えば非常に早く調乳ができる。

工程 1 では、かならず湯温を70℃以上にする。これは粉ミルク中に存在する菌を殺菌するために必要な温度とされている。デパートのベビー休憩室の給湯器はだいたい80℃台に設定されているためそのまま利用できる。一方、温度が高すぎると今度はミルク中のビタミンやタンパク質が変性しやすく、栄養価が低下するとされている。湯沸かしポット等を使わずヤカンやティファールで湯を沸かす場合は、沸騰させた湯を計量カップなどに一度移し変えると丁度良い温度まで下がり、待ち時間を減らせる。

工程 2 は、缶からミルク粉末を測り取る作業が意外と手間になる。湯を沸かす必要がある場合は沸くのを待つ間に測り取りを行う。また100cc単位での調乳しかできなくなるが、100cc分づつ個包装になった粉ミルクパックを使うととても速くなる。キューブタイプの「ほほえみ」は一見速そうだが、キツキツで引っかかりやすい個包装からキューブを取り出したり、キューブを分割する作業が手間取りやすく、溶かすための時間も粉末タイプより必要となるため時間がかかる。(毎回個包装内容量の200mlづつ作る場合には問題ない)

工程 5
ではペットボトルから「冷たい水」を注ぐ。ペットボトルの水はほぼ無菌なので、赤ちゃんでも加熱せず飲用できる。具体的には「サントリー天然水」などは硬度が低いため粉ミルク向けで、またどこに行っても簡単に入手できるので便利である。多少の硬度でも気になる人向けには「赤ちゃんの純水」などのベビー用純水が赤ちゃん用品店やドラッグストアで販売されている。自宅で使う場合は開封前から冷蔵庫に入れておくとできあがり温度が安定する。封を切ったペットボトルはどんどん細菌に汚染されていくので、キャップの内側や飲み口は絶対に手で触らない様に注意し、必ず冷蔵して48時間以内に使い切る。子供が新生児の場合は24時間経過したペットボトルの水は捨てるか加熱用途にすると良い。開封から使い切るまでの時間が長くならない様、ペットボトルは必ず500ml以下のサイズを購入する。

工程 4, 6 では哺乳瓶を振らずにマドラーで混ぜる。一般的に哺乳瓶は振って混ぜる物、というイメージがあるが、これをすると乳首の孔や吸気口にミルクが入り込む場合があり、ミルク漏れ事故の原因となる。マドラーを洗浄し清潔に保つ手間が生じるが、ミルク漏れしないというメリットはこれを上回る。また工程 7 で温度を計るためには、この時点ではまだ蓋や乳首をつけない方がスムーズである。

工程 7
では温度を赤外線温度計で測る。従来の「腕の内側に1滴垂らして確認する」方法は判断が曖昧になりやすい上、なかなか乳首からミルクが落ちず、乳首を腕に擦り付けてしまう親の姿も散見され衛生的でない。赤外線温度計は非接触で温度を測定できるため衛生的で正確である。ただし液体は液面から冷めていくので、ミルク全体の温度を知るために必ず混ぜた直後に測定する。哺乳瓶に貼り付けるタイプの温度計は哺乳瓶外側の温度を測っているに過ぎず、これが内部の液温と平衡するまでにはかなりの時間が必要となるためお勧めできない。水を足した時点で確実に安全な温度(20℃〜40℃の範囲)に調乳できている自信がつけば、この測定は省略できる。拙サイトの「調乳温度計算機」を使えば、湯と冷水の分量比のだいたいの目安を計算しておく事ができる。

説明が長くなったのでポイントだけ抜き出すと以下の様になる。

・ミルクの温度は20℃台になっても問題ない。安全な30〜35℃を目指して調乳する。
・ペットボトルの水を足すことで冷ます工程を省略する。
・哺乳瓶は振らずに、マドラーで混ぜる。
・温度を計る必要がある場合は腕に垂らさず、赤外線温度計を使う。

お読みの皆様の調乳方法と比べてどうだっただろうか。よい速い方法をご存知の方はどうかご教授いただきたい。最後に文中に登場した商品のアフィリエイトリンクを貼らせていただこう。

2021年追記:子供が大きくなってとっくに買う必要も無くなっており、最新のミルク・トレンドをフォローできないのでリンクは全部削除しました

ゆらゆらとシャカシャカ (漫想新聞5号掲載)

抱っこ紐に赤ん坊を入れた状態で、シャカシャカシャカ・ザザーと音を立てる楽器をふり回しながら、そろそろと四歩あるいてはゆっくり身体を反転させて、四歩戻る。この往復の繰り返し。なにかの舞踊めいた動きは宗教的な儀式のように見えるかもしれないが、これは私の子が二ヶ月になった頃に行っていた寝かしつけ作業の様子だ。ポイントは、歩く振動を与える事と「レジ袋音のラトル」(ピープル社)のサウンドを聴かせる事。ゆっくりと四歩分の区間だけを往復するのは、狭い部屋の中で歩き回る際の予想外の事故を防ぐためだ。

泣きわめく赤ちゃんをゆっくり揺らすと静かになり、やがて安らかに眠る。赤ちゃんのあやし方についてのステレオタイプ的なイメージだが、実際に抱き上げて揺らすのはとても効果がある。「揺さぶられっ子症候群」というものもあって揺らしすぎると危険、という事も知られているが、これは極端な揺さぶり方をした場合に起きるもののようで、普通に赤ちゃんの様子を観察しながら揺らす限りでは問題は起きないと思う。「揺さぶる」と「揺らす」の語のニュアンスの違いから、危険な動きと安全な動きの差異が読み取れるかもしれない。あるいは「ゆらゆら」と形容できるような範囲に留めておけばきっと安全だろう。

実際には「ゆらゆら」とは言えないような動き、ゴロゴロゴロと移動するベビーカーの細かい振動や、電車や車の振動でも子は静かになった。少し成長してそれなりに度々電車に乗るようになると、駅で停車すると不機嫌になり、電車が動き出すと大人しくなるという事も見られた。先述の「儀式」のように、抱っこ紐に入れて部屋を歩き回るのなんかもう最高という感じだ。揺れや振動で静かになる子の様子を見ていると、これは移動の感覚に対する生理的な反応なのかなと思った。

サルの親は自分に子供を抱きつかせたり、片手で子を抱えて移動するが、移動中にバタバタとあばれる子供は親の体から落ちてしまい、死んだり怪我をしたり、あるいは捕食者からの逃走中であればより深刻な事になっただろう。我々の祖先がサル的な生き物だった頃にもそのような経験をしており、移動に反応してじっとおとなしくする機能を持つ赤ちゃんは生き残り易く、それがヒトに受け継がれている、という事なのかもしれない。そう考えると、自分の子供が数千万年にわたる生物的な資産をしっかり受け継いでいるという風に感じられて、突然頼もしく見えてくる。

他に、「赤ちゃんが持つ反射」としてよく紹介されているものの中でも、びっくりした時に手足を突き出してこわばらせる「モロー反射」は親ザルに抱えられた子ザルが落とされるのを防ぐために役立つものだと言われる。「把握反射」はそのまま、親ザルの体毛にしがみつくための機能だろう。またサルだけではなく、ネコの首の後ろをつまむと動かなくなるのもおそらく同様で、親ネコが子ネコの首の後ろを噛んで運ぶ際に、子ネコが暴れて落ちないようになっていると考えられている。移動の際に赤ちゃんが動かなくなるしくみは、他にも多くの哺乳類が持っているかもしれない。

赤ちゃんを揺らすとおとなしくなる事について、たまに「海の波のようなゆらぎが赤ちゃんのリラックスをさそう」といったロマンチックな解説も目にするのだが、実際には移動中にじっとしていないと死ぬのでじっとしているようになったという話で、その特性を利用して、泣きわめく子を静かにさせ、そして寝かしつけたりしているわけだ。(続く)


このエッセイの続きを掲載した「漫想新聞 第5号」は、Lilmag通販で購入(200円+送料)いただけます。

指しゃぶり(がなくなった事)

ついさっき突然気がついたのだけれど、子がいつの間にか指しゃぶりをしなくなっていた。生まれた時から指しゃぶりをしていて、といっても新生児の頃は指をうまくしゃぶるという事はできずに手全体を口に中に押し込もうとしていて、それがいつの間にか上手に親指だけ口の中に入れる事ができる様になって、赤ちゃんらしい指しゃぶりができる様になったねなんて話していたものだったが。

まだウチの子は7ヶ月と若いので、これからまた指しゃぶり再ブームといった感じで再び始まる可能性もある。が、とにかく一時期、彼を見てる大人にとって指しゃぶりというのは大きなトピックだったと思うのだが、そんな事はすっかり忘れて指しゃぶりがなくなった事にすら気がついていなかった。毎日見ている中で、いつの間にか変わっていくがゆえに気がつかない変化なのだろうか。

こうしてトピックごとにエッセイとして書く際に、書くべきトピックを書き忘れる事がたくさんありそうだなと思ってはいたのだが、書き方を変えて日記形式で日々の出来事を書いたとして、「指しゃぶりが上手になった」事は書けても「指しゃぶりがなくなった」事には気がつかなかっただろう。そうすると書き残すに値する出来事を見つけるには、一旦脇目も振らずに通過して、後から振り返った時にそれに心がひっかかってくれる事を期待するしかない様に思える。

人の役に立った話

分娩室で子が産まれて、お医者さんたちの最初の処置が終わった段階で、ではお父さん抱っこして下さいねみたいな流れがきた。しかし当方36才男性なので、0才新生児を抱っこするにはちょっと身体に細菌等が多すぎるんじゃないかと心配で、いやそういう儀式っぽいやつ要らないんで……と声に出かけるが、心配しすぎるのもまた良くない気がして言われるがままに新生児を抱く。抱くというか恐る恐る短時間保持したという状態だった。それからかくかくしかじかあって、出産直後の妻と私は真夜中の産科棟の病室へ移動となる。

ほどなく病室に看護師さんが新生児を連れてくる。先ほどと異なり、胎脂や羊水が綺麗に拭き取られ気持ちの良さそうなおくるみに包まれた新生児はレストランのサービスワゴンの様な専用の乗り物に乗せられている。入院にあたっての諸注意やこちらで記入すべき資料など、看護師さんが次々に取り出して説明してくれる。資料を置く場所もない立ったままの姿勢で、説明しにくいんじゃないかなと思う。いや、実はいかにも資料を置きたくなる様な丁度いい高さのワゴンがすぐそこにあるのだが、そこには新生児が乗せられているのだ。あまりにもその高さ・位置が丁度良い感じなので、一つ資料の説明が終わるたびに、その資料がポンと新生児の上に乗せられそうな気がする。しかしその度に資料はくるっと資料の束の裏側に回されて置かれる事はない。今度こそ乗せるかな乗せるかなと思って見てても、やっぱり乗せない。さすがにまあ、産まれたての新生児の上に何か乗せるという事はないんだな〜気にするタイプの人からは怒られちゃいそうだもんな〜と思いながら説明を聞き終わった所で、説明が終わった資料の束を、看護師さんがポンと新生児の上に乗せた。あっ乗せた。と思った。結局乗せるんじゃん。とも思った。妻も、あっ乗せた。と思ったという。とにかく資料が新生児の上にポンと乗って、その両親はあっ乗せたと思っているのだが、大したことない重さだし、新生児はそんな事全然気にしていない。看護師さんにとってもそれは日常の事みたいで、その後何事もなかったように次の流れへ、たしか妻の寝てるベッドに新生児を乗せてのふれあいタイムみたいなイベントだったか、最終的に新生児は再びサービスワゴンに乗せられゴロゴロゴロと新生児室へ運ばれて行った。これがウチの子が初めて人の役に立った時のエピソードで、堂々とした書類置き場ぶりだった。さすがですね。

Re: 育ちまん

現在ちょっとした事情で公開されていないのだが、友人が「子育ちまんが」という名のエッセイコミックを描いている(Twitter, Facebook に1エピソード1ページの形態で連載されている)。作品のジャンルで言えば子育てエッセイマンガだけど、タイトルは「子育てまんが」ではなく「子育ちまんが」。それについての説明は特になかった様に記憶しているのだけれども、自分が育てていると主張するなんて烏滸がましいとでも言いたげな謙虚さを感じさせつつ、子供たちが自ら育っていく力へのゆるぎない信頼を含む、とてもいいタイトルだと思う。「育ちまん」という略称もあって、これは子供たちが「育ちマン」なのかなとも思わせる。

「子育ちまんが」の連載が始まったのは私の子供が生まれる3ヶ月くらい前というタイミングで、登場する兄妹の下の子はウチの子の半年先輩。私はなんとなくこれから起きる事の予習の様な気持ちで読んでいる。たとえば、作中に出てくる「丸々太って砂袋みたいな女の子」という表現がすごく可愛くて面白いなと思って、ではウチの子はどんな赤ん坊になるんだろうと楽しみにしていた。果たして現在のウチの子は、太った感じや寝返り・這いずる事への興味のない感じは似てる部分かもしれないけど、砂袋という感じではないね……えーと……ハムみたいな坊や……?といった調子で、非常に月並みな形容しか思いつかない。子育てエッセイとしてのセンスのよさ、楽しさといった所では、とても叶わないと思う。

世の中には赤ん坊の寝かしつけや夜泣きで苦労する話が溢れているけれど、ウチの子はおっぱいを吸わせると確実に寝てしまうので幸いほとんど苦労がない。そういうわけで普段子の寝かしつけは妻が担当しているのだけれど、たまには妻が夜でかけている時もある。昨夜もそうだった。そんな時の寝かしつけの方法なのだが、こちらの手元にはおっぱいという確実な方法がないため、毎回子供の様子をみながらアドリブで試行錯誤する事になる。暖かい時分には、だっこ紐に入れて寝るまで外を散歩するという方法がよく効いたのだが、この寒い時期に外に出るのは親子共につらいし、寝た子を冷たい寝床に収納する際に起こしてしまうという事も起きうる。できれば起きている状態で寝床へセットして、そのまま寝ていただくのがベストだ。

しかしこれは今まで成功した事がない寝かしつけ方だ。まず親の私が、我が子よお前はもうベッドに入って自分の力で寝る事ができる年頃だと強く信じる。強く信じる気持ちで子をベッドに置く。ベッドの冷たさと、今夜は母は(というよりおっぱいは)いないのかという思いにおそわれた子が泣き始める。子守唄を歌っても効果がない。手を握ったり頭を撫でても逆効果だ。そこで突然少し前の「子育ちまんが」の事を思い出す。兄妹のお兄さんが、お気に入りのおもちゃと一緒に寝床に入るという話。居間のおもちゃ箱から、今日一番よく握っていたおもちゃを持ってきて手渡すと、ふっと落ち着いたようにみえる。さらに赤ちゃんが泣き止むというレジ袋の音がするガラガラの音を聴かせながら、ゆっくり動かして見せる。子はしばらくグズっていたが、ほどなくして眠りについた。覚醒した状態で寝床につき眠るというのは、彼にとって初めての偉業だ。ありがとう育ちまん。

そのお気に入りのおもちゃを持って眠る、という「子育ちまんが」のエピソードを読んで思い出したのは、定番の童話作品「おしいれのぼうけん」だ。この物語で主人公の子供たちがおちいる悪夢の世界では、たまたま手に握っていたおもちゃが悪夢と戦う武器になり、そこから抜け出すための道しるべとなる。ちいさな子供とって手に馴染んだおもちゃは、怖いものや未知のものと対峙するのに必要な、勇気や落ち着きをあたえてくれるのかもしれない。今夜はSassyのなんだかよくわからないおもちゃが、ウチの子に入眠という未知へ挑む力を与えてくれた。一方、初めての子育てに挑んでいる自分にとっては、「子育ちまんが」をはじめとする先輩たちの楽しいレポートが、そういう力を与えてくれる存在になっていると思う。

子守唄

子がまだ新生児の頃は、今よりもよく子守唄を歌っていた。という事は現在(6ヶ月半)は当時ほどたくさんの子守唄を歌ってないのだけれど、とくにこれといった原因があるわけではない。あまり子守唄に子供を眠らせる様な効果がない事がわかってきて歌うモチベーションが欠けてきたり、ウチの子供が比較的決まった時間にぐっすり寝る子供であるため歌うべき局面が少ないといった理由かもしれない。子供が言葉や歌を理解できる様になってきたらまた歌ったりするのだろうか。

といっても、いわゆる子守唄とされるジャンルの歌はあまり知らないため、勝手に子守唄っぽさを感じたものなどを歌っていた。もっともよく歌ったものは中島みゆき「狼になりたい」だった。この歌を歌い出したきっかけは、新生児の頃の子が「母乳はまだか!」騒ぐ姿が、この歌に登場する男が「ビールはまだか!」怒るシーンを彷彿させたからだ。サビの「おおかみになりたい」というフレーズをゆっくりと歌うと眠気を誘う様な音程の波が現れ、小さい波で寂しげに「ただいちど」と消えていく感じはとても眠りに誘う効果が高そうに思えた。

また「およげ!たいやきくん」もよく歌った。これは、毎日毎日オムツを替える動作を繰り返し続ける新生児の保護者の気持ちが「毎日毎日鉄板で焼かれて嫌になる」という歌詞と繋がったからだと思う。しかし、どちらかというとオムツを開いては取り替える保護者の様子は、鉄板を開いては中のたい焼きを入れ替えるたい焼き屋のおじさんの動きに近い。たいやきくんが「毎日毎日鉄板で焼かれて嫌に」と歌われているのは、実はおじさんが「毎日毎日鉄板でたい焼きを焼いて嫌に」なっている気持ちの反映なのかもしれない。この歌は海から釣り上げたたい焼きをいきなり食べてしまうサイコ野郎に主人公が食べられて終わる所が唐突で面白いので、子守唄としての効果の有無については脇に置いて繰り返し歌いたくなる。

以前書いた様に、他にも多数の歌を歌っていた気がするのだけど、今思い出せるものはあまり多くない。いまこの文章を書きながら思い出したのは、アニメ「楽しいムーミン一家」の主題歌だった「夢の世界へ」という歌だ。これは三拍子のゆったりした曲で、短調の「思いきり泣く」と歌われるパートから長調の「夢の世界へ」といった歌詞へ展開するところなど、子守唄的な要素が多い事から思い出したのだと思う。他にも思い出したらここに追記しておきたい。

(追記:「飾りじゃないのよ涙は」も歌っていた。ただ、新生児は泣いてもあまり涙が出ない。涙が出始めた頃にそれを見て歌っていたのだろうか)

少し子供が成長してからは、子供の行動などを歌詞にしてデタラメなメロディをつけて歌うことも多くなった。この場合それほど長い歌詞にはできないのでひたすら繰り返しの歌詞になり、眠りに誘う効果が高そうな歌を歌うことができる。とはいえ、実際には子守唄だけで子供を眠らせたり落ち着かせる事ができるものではなく、多くの場合は子を持ち上げてユラユラするという、圧倒的に効果が高い技との組み合わせで使われる。歌に効果があるとすれば、その際にリズムを取りやすくなる点と、歌う事に集中する事で、保護者の方の気持ちが落ち着くという点が大きいだろう。そのため子守唄は、歌う人が歌いやすく楽しい気楽な気持ちで歌えるものが良いと思う。この「持ち上げてユラユラ」についても、また別の文章でとりあげてみたい。