人の役に立った話

分娩室で子が産まれて、お医者さんたちの最初の処置が終わった段階で、ではお父さん抱っこして下さいねみたいな流れがきた。しかし当方36才男性なので、0才新生児を抱っこするにはちょっと身体に細菌等が多すぎるんじゃないかと心配で、いやそういう儀式っぽいやつ要らないんで……と声に出かけるが、心配しすぎるのもまた良くない気がして言われるがままに新生児を抱く。抱くというか恐る恐る短時間保持したという状態だった。それからかくかくしかじかあって、出産直後の妻と私は真夜中の産科棟の病室へ移動となる。

ほどなく病室に看護師さんが新生児を連れてくる。先ほどと異なり、胎脂や羊水が綺麗に拭き取られ気持ちの良さそうなおくるみに包まれた新生児はレストランのサービスワゴンの様な専用の乗り物に乗せられている。入院にあたっての諸注意やこちらで記入すべき資料など、看護師さんが次々に取り出して説明してくれる。資料を置く場所もない立ったままの姿勢で、説明しにくいんじゃないかなと思う。いや、実はいかにも資料を置きたくなる様な丁度いい高さのワゴンがすぐそこにあるのだが、そこには新生児が乗せられているのだ。あまりにもその高さ・位置が丁度良い感じなので、一つ資料の説明が終わるたびに、その資料がポンと新生児の上に乗せられそうな気がする。しかしその度に資料はくるっと資料の束の裏側に回されて置かれる事はない。今度こそ乗せるかな乗せるかなと思って見てても、やっぱり乗せない。さすがにまあ、産まれたての新生児の上に何か乗せるという事はないんだな〜気にするタイプの人からは怒られちゃいそうだもんな〜と思いながら説明を聞き終わった所で、説明が終わった資料の束を、看護師さんがポンと新生児の上に乗せた。あっ乗せた。と思った。結局乗せるんじゃん。とも思った。妻も、あっ乗せた。と思ったという。とにかく資料が新生児の上にポンと乗って、その両親はあっ乗せたと思っているのだが、大したことない重さだし、新生児はそんな事全然気にしていない。看護師さんにとってもそれは日常の事みたいで、その後何事もなかったように次の流れへ、たしか妻の寝てるベッドに新生児を乗せてのふれあいタイムみたいなイベントだったか、最終的に新生児は再びサービスワゴンに乗せられゴロゴロゴロと新生児室へ運ばれて行った。これがウチの子が初めて人の役に立った時のエピソードで、堂々とした書類置き場ぶりだった。さすがですね。

Re: 育ちまん

現在ちょっとした事情で公開されていないのだが、友人が「子育ちまんが」という名のエッセイコミックを描いている(Twitter, Facebook に1エピソード1ページの形態で連載されている)。作品のジャンルで言えば子育てエッセイマンガだけど、タイトルは「子育てまんが」ではなく「子育ちまんが」。それについての説明は特になかった様に記憶しているのだけれども、自分が育てていると主張するなんて烏滸がましいとでも言いたげな謙虚さを感じさせつつ、子供たちが自ら育っていく力へのゆるぎない信頼を含む、とてもいいタイトルだと思う。「育ちまん」という略称もあって、これは子供たちが「育ちマン」なのかなとも思わせる。

「子育ちまんが」の連載が始まったのは私の子供が生まれる3ヶ月くらい前というタイミングで、登場する兄妹の下の子はウチの子の半年先輩。私はなんとなくこれから起きる事の予習の様な気持ちで読んでいる。たとえば、作中に出てくる「丸々太って砂袋みたいな女の子」という表現がすごく可愛くて面白いなと思って、ではウチの子はどんな赤ん坊になるんだろうと楽しみにしていた。果たして現在のウチの子は、太った感じや寝返り・這いずる事への興味のない感じは似てる部分かもしれないけど、砂袋という感じではないね……えーと……ハムみたいな坊や……?といった調子で、非常に月並みな形容しか思いつかない。子育てエッセイとしてのセンスのよさ、楽しさといった所では、とても叶わないと思う。

世の中には赤ん坊の寝かしつけや夜泣きで苦労する話が溢れているけれど、ウチの子はおっぱいを吸わせると確実に寝てしまうので幸いほとんど苦労がない。そういうわけで普段子の寝かしつけは妻が担当しているのだけれど、たまには妻が夜でかけている時もある。昨夜もそうだった。そんな時の寝かしつけの方法なのだが、こちらの手元にはおっぱいという確実な方法がないため、毎回子供の様子をみながらアドリブで試行錯誤する事になる。暖かい時分には、だっこ紐に入れて寝るまで外を散歩するという方法がよく効いたのだが、この寒い時期に外に出るのは親子共につらいし、寝た子を冷たい寝床に収納する際に起こしてしまうという事も起きうる。できれば起きている状態で寝床へセットして、そのまま寝ていただくのがベストだ。

しかしこれは今まで成功した事がない寝かしつけ方だ。まず親の私が、我が子よお前はもうベッドに入って自分の力で寝る事ができる年頃だと強く信じる。強く信じる気持ちで子をベッドに置く。ベッドの冷たさと、今夜は母は(というよりおっぱいは)いないのかという思いにおそわれた子が泣き始める。子守唄を歌っても効果がない。手を握ったり頭を撫でても逆効果だ。そこで突然少し前の「子育ちまんが」の事を思い出す。兄妹のお兄さんが、お気に入りのおもちゃと一緒に寝床に入るという話。居間のおもちゃ箱から、今日一番よく握っていたおもちゃを持ってきて手渡すと、ふっと落ち着いたようにみえる。さらに赤ちゃんが泣き止むというレジ袋の音がするガラガラの音を聴かせながら、ゆっくり動かして見せる。子はしばらくグズっていたが、ほどなくして眠りについた。覚醒した状態で寝床につき眠るというのは、彼にとって初めての偉業だ。ありがとう育ちまん。

そのお気に入りのおもちゃを持って眠る、という「子育ちまんが」のエピソードを読んで思い出したのは、定番の童話作品「おしいれのぼうけん」だ。この物語で主人公の子供たちがおちいる悪夢の世界では、たまたま手に握っていたおもちゃが悪夢と戦う武器になり、そこから抜け出すための道しるべとなる。ちいさな子供とって手に馴染んだおもちゃは、怖いものや未知のものと対峙するのに必要な、勇気や落ち着きをあたえてくれるのかもしれない。今夜はSassyのなんだかよくわからないおもちゃが、ウチの子に入眠という未知へ挑む力を与えてくれた。一方、初めての子育てに挑んでいる自分にとっては、「子育ちまんが」をはじめとする先輩たちの楽しいレポートが、そういう力を与えてくれる存在になっていると思う。

子守唄

子がまだ新生児の頃は、今よりもよく子守唄を歌っていた。という事は現在(6ヶ月半)は当時ほどたくさんの子守唄を歌ってないのだけれど、とくにこれといった原因があるわけではない。あまり子守唄に子供を眠らせる様な効果がない事がわかってきて歌うモチベーションが欠けてきたり、ウチの子供が比較的決まった時間にぐっすり寝る子供であるため歌うべき局面が少ないといった理由かもしれない。子供が言葉や歌を理解できる様になってきたらまた歌ったりするのだろうか。

といっても、いわゆる子守唄とされるジャンルの歌はあまり知らないため、勝手に子守唄っぽさを感じたものなどを歌っていた。もっともよく歌ったものは中島みゆき「狼になりたい」だった。この歌を歌い出したきっかけは、新生児の頃の子が「母乳はまだか!」騒ぐ姿が、この歌に登場する男が「ビールはまだか!」怒るシーンを彷彿させたからだ。サビの「おおかみになりたい」というフレーズをゆっくりと歌うと眠気を誘う様な音程の波が現れ、小さい波で寂しげに「ただいちど」と消えていく感じはとても眠りに誘う効果が高そうに思えた。

また「およげ!たいやきくん」もよく歌った。これは、毎日毎日オムツを替える動作を繰り返し続ける新生児の保護者の気持ちが「毎日毎日鉄板で焼かれて嫌になる」という歌詞と繋がったからだと思う。しかし、どちらかというとオムツを開いては取り替える保護者の様子は、鉄板を開いては中のたい焼きを入れ替えるたい焼き屋のおじさんの動きに近い。たいやきくんが「毎日毎日鉄板で焼かれて嫌に」と歌われているのは、実はおじさんが「毎日毎日鉄板でたい焼きを焼いて嫌に」なっている気持ちの反映なのかもしれない。この歌は海から釣り上げたたい焼きをいきなり食べてしまうサイコ野郎に主人公が食べられて終わる所が唐突で面白いので、子守唄としての効果の有無については脇に置いて繰り返し歌いたくなる。

以前書いた様に、他にも多数の歌を歌っていた気がするのだけど、今思い出せるものはあまり多くない。いまこの文章を書きながら思い出したのは、アニメ「楽しいムーミン一家」の主題歌だった「夢の世界へ」という歌だ。これは三拍子のゆったりした曲で、短調の「思いきり泣く」と歌われるパートから長調の「夢の世界へ」といった歌詞へ展開するところなど、子守唄的な要素が多い事から思い出したのだと思う。他にも思い出したらここに追記しておきたい。

(追記:「飾りじゃないのよ涙は」も歌っていた。ただ、新生児は泣いてもあまり涙が出ない。涙が出始めた頃にそれを見て歌っていたのだろうか)

少し子供が成長してからは、子供の行動などを歌詞にしてデタラメなメロディをつけて歌うことも多くなった。この場合それほど長い歌詞にはできないのでひたすら繰り返しの歌詞になり、眠りに誘う効果が高そうな歌を歌うことができる。とはいえ、実際には子守唄だけで子供を眠らせたり落ち着かせる事ができるものではなく、多くの場合は子を持ち上げてユラユラするという、圧倒的に効果が高い技との組み合わせで使われる。歌に効果があるとすれば、その際にリズムを取りやすくなる点と、歌う事に集中する事で、保護者の方の気持ちが落ち着くという点が大きいだろう。そのため子守唄は、歌う人が歌いやすく楽しい気楽な気持ちで歌えるものが良いと思う。この「持ち上げてユラユラ」についても、また別の文章でとりあげてみたい。

はじめに

子供が産まれてから思った事などをいろいろ Twitter に書いていたら、それを見てなのかそうでもないのか、漫想新聞に育児エッセイを書いてくれと主筆のマスダさんからご依頼をいただいたので、その練習です。

子の成長は早く、その時その時の姿もどんどん忘れていってしまうものなので、写真や映像で記録しましょうという話はよく聞くのですが、写真に残らないような事、特に自分が何を考えたり、感じていたかといった具体物の姿を取らない物事なんかは、言葉に残さないと日々の忙しさの中でどんどん記憶から失われてしまう。

自分で忘れた事を自覚している例をあげると、子が新生児の頃に、私が歌っていた子守歌がわりの歌がけっこう沢山あった気がするのだけど今では数曲しか思い出せない。その他にも、忘れた事すら思い出せない事はたくさんあると思う。

そういった物事を憶えているうちに書いておいたり、あるいは書くことで思い出したりなんかしていこうかなという試みです。